たとえば大学のレポートで
「近世以前と近代以降で、日本人の景観に対する意識がどのように変化したか論じよ」
という出題が出たとする。
あるいは設計コンペで
「境界に生きる」
というテーマが出題されたとする。
こういった普段何気なく取り扱っている概念や単語について、改めて考え文章化する行為というのは、極めて専門的な能力が問われることとなる。
むろん、ネット検索で「江戸時代と明治時代の景観意識の違い」「境界空間」に関する記事や参考文献を発見すること自体は容易である。
(少なくともこのブログのような超マイナー弱小サイトに自力たどり着ける程度の検索能力があるのだから)
しかしほとんどの建築学生は、その文献が、
- その業界内で主流となっている主張なのか、
- 主流とされる学説に対して異議・例外を突きつける主張なのか。
- それとも素人が思いつき同然で書き散らしただけの珍説なのか、
という信憑性の検証や学問における位置づけの判断を自力で行うことができない。
これがある程度「研究慣れ」している人間であれば、インターネット、ウィキペディア、Amazon、図書館を駆使し、レポート執筆の用に供する強度を持った参考文献にたどり着くことは可能である。
あなたが多読化であれば、はじめに手にとった1冊の嘘を別の99冊によって暴くことも可能である。
しかしそれがかなわない建築学入門者のためには、都市・建築に関する基本的な概念をまとめたような、かつその内容に関する代表的な参考文献をまとめたよ
うな、そんな事典が必要になるだろう。
今回紹介する『建築・都市計画のための空間学事典 (日本建築学会編)』は、そんな学生のニーズに答える一冊である。
概要
- 書名:建築・都市計画のための空間学事典 増補改訂版
- 編著:日本建築学会
- 価格:3,780円
- 判型:21.1 x 13.1 x 1.8 cm
(Amazonより)
『事典』と名前がつくが、ニュアンスとしては「用語集」に近い。
価格は3,780円で、大きさも新書よりひとまわり大きい程度である。
建築史・都市史・構造系・環境系の事典が殺人的な重さと価格を持っていることを考えれば十分良心的だと思う。
目次
まずは本書の目次から見てみよう。
- 知覚
- 感覚
- 意識
- イメージ・記憶
- 空間の意味
- 空間の認知・評価
- 空間行動
- 空間の単位・次元・比率
- 空間要素
- 空間演出
- 内部空間
- 外部空間
- 中間領域
- 地縁的空間
- 風景・景観
- 文化と空間
- 非日常の空間
- コミュニティ
- まちづくり
- 災害と空間
- ユニバーサルデザイン
- 環境・エコロジー
- 調査方法
- 分析方法
- 関連分野
ご覧の通り、「空間」を一本のテーマとしながらも、その内容は実に多岐にわたっている。
出版の経緯
1985年、日本建築学会から建築や都市空間にまつわる研究会・シンポジウムの開催や研究成果の刊行を行う団体である「空間研究小委員会」が設立された。
同委員会はその研究内容の報告として
- 1987年:『建築・都市計画のための調査・分析方法』(2012年改定)
- 1990年:『建築・都市計画のための空間学』
- 1992年:『建築・都市計画のためのモデル分析』
- 2002年:『建築・都市計画のための空間計画学』
などの一連の出版を行い、空間研究の定量的な手法の整理・分類を試みてきた。
同時に、「空間を研究する」ための手法やノウハウについてまとめる中で、委員会内では「空間をめぐる言葉の用法(用語)が研究者によって曖昧である」という指摘が出始める。
これを受けて1996年に『建築・都市計画のための空間学事典』の初版が出版。
当時は扱う200語であった掲載単語も、版を重ねるごとに増加し、現在では272語に登る。
2016年に増補改訂版として執筆された本書は、当然前述の4書籍の内容も反映されている。
この一冊は、建築・都市空間の「調査分析」「モデル分析」「空間学」「空間計画学」の導入の手引としての役割を果たすと言っても過言ではないのである。
本書の使い方
1.授業・読書の副読本
この本は用語集なので、当然
「見たこともない単語」
「意味が曖昧な概念」
が授業中や読書中に登場した時に、それを確認するために使うことができる。
- コーポラティブハウス
- レジビリティ
- アフォーダンス理論
- クラスター分析
- SD法
など、建築空間や都市空間に関する概念・言葉が出てきた時に、その意味を調べるのに役に立つ。
本書で取り上げられている項目はわずか272項目であるが、索引を使えば更に多くの単語の意味を調べられる。
とはいえ、この本が単なる用語集なのであれば、正直なところgoogle検索で事足りる。
上記の単語も、本音を言ってしまえばスマホで検索したほうが素早く確実にその単語の意味を理解できる。
本書の魅力は、そうした空間的な用語に関するまとまった量の「参考文献」にある。
2.レポート・コンペ編
レポートやコンペティションのように、あるテーマをあたえられ、それに関して自身の考えや主張を組み立て発表する機会は、建築学生には非常に多い。
このとき重要となってくるのが、先人たちはその課題をどのように解釈し、どのような答えを出してきたのかという先行研究である。
100年近く前の建築家が発表した有名な主張を、さも自分が最初の発明であるかのように人前で発表するほど恥ずかしいことはない。
そこでこの本の出番となる。
「人間の方向感覚に関する研究って、どんな物があるの?」
「いわゆる中間領域って、空間学ではどう解釈されてるの?」
「コンパクトシティ関する硬派な専門書が見つからない!」
といった疑問に対し、それぞれに関連する主要参考文献がまとまっているからだ。
例えば方向感覚について調べるために、本書の「2章:感覚」に関する参考文献を開いてみると、
- 『人間の空間─デザインの行動的研究』ロバート・ソマー,鹿島出版会,1972
- 『人間行動学講座3 住まう─住行動の心理学』中島 義明,朝倉書店,1996
- 『隠れた次元』エドワード・T・ホール,みすず書房,1970
- 『建築と都市の人間工学─空間と行動の仕組み』岡田光正,鹿島出版社,1977
などの該当書籍を見つけることができるだろう。
中間領域についても「緩衝空間」「遷移空間」「間」「辻」「界隈」「アジール」「アトリウム」「アーケード」「ピロティ」「縁側」とその内容を細かに分類した上で、
- 『都市と建築のパブリックスペース』ヘルマン ヘルツベルハー,鹿島出版社,2011
- 『建築・都市計画のため空間の文法』船越 徹 積田 洋,彰国社,2011
- 『空間の日本文化』オギュスタン・ベルク,筑摩書房,1994
- 『ヴィジュアル版建築入門5 建築の言語』小嶋 一浩編, 彰国社,2002
のように、都市や建築の中間領域にまつわる書籍が、21冊紹介されているのである。
コンパクトシティは、一般・学生向けのわかりやすさを優先した書籍や、ごく一部の成功事例に対するエッセイめいたものも多く、独力で専門書に到達するのは意外にむづかしい。
本書では参考文献として
- 『コンパクトシティ』G.B.ダンツィク,日科技連出版社,1974
- 『コンパクトシティの計画とデザイン』海道 清信,学芸出版社,2007
- 『コンパクトシティ─持続可能な社会の都市像を求めて』海道清信,学芸出版社,2001
- 『コンパクトシティ再考─理論的検証から都市像の探求へ』玉川英則編著,学芸出版社,2008
- 『ECOシティ─環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて─』丸尾 直美ほか,中央経済社,2010
などが取り上げられている。
3.卒業論文・自主研究編
誰かに与えられたテーマではなく、自分自身で研究テーマを掲げて行う卒業研究や独自研究においても、この本は有用である。
本書の「25章:調査方法」および「26章:分析方法」には、空間を定量的に調査・分析する方法と、それを用いた研究論文が、ある程度網羅的に掲載されている。
25:調査方法
- 家具・しつらえ観察調査
- 行動観察調査
- アンケート調査
- インタビュー調査
- デザイン・サーベイ
- ソシオメトリ
- SD法
- 空間認知調査
- 空間感覚測定
- 実験室実験
- 模型実験
- 生理的測定
- 脳波解析
- アクション・リサーチ
- GPS
26:分析方法
- 統計的仮説検定
- クロス分析
- 多変量解析
- 相関分析
- 回帰分析
- 因子分析
- クラスター分析
- 数量化理論
- 多次元尺度構成法
- モデル分析
- トポロジー
- グラフィカルモデリング
- 共分散構造分析
残念ながら個別の手法に対する詳細な解説はこの本にはない。
それでも、建築や都市を分析する手法にどのようなものがあるのかが全くわからない人にとっては、優れた導入になると思う。
この本で見つけた手法名でGoogle検索をすれば、具体的にその手法を活かした論文原稿や、調査の手引書を見つけることもできるはずである。
もちろんこの中には大規模な空間模型を作って行う実験や、大人数の人海戦術によって行う調査、高度な統計・プログラミング知識がなければできない分析も沢山あるのだけれど。
まとめ
建築学生の間でしばし
「学問として建築を考える」
という言葉が登場する。
しかし、この「学問として」というセリフは、往々にして独りよがりで衒学的な用語で空間を描写することの免罪符に使われている。
当たり前であるが、先行研究に依拠しない言説は到底学問的と呼ぶことはできない。
また、
「建築を学ぶためのオススメ本10選!」
のようなブログ記事や雑誌特集もしばし目にすることがある。
しかし、読み手がどの程度の知識を持っており、どのような目的で本を探しており、どのような題材に関心を持っているのかということ、つまり相手が何を学びたいのかが具体的にはっきりしていなければ、本のオススメなどできるはずがない。
苟も建築・都市における特定分野の専門性を深めたいと目論むのであれば、
- あなたが今何に興味を持っているのか?
- それは学問的にはどのような既往研究が存在するのか?
- それを把握するためにはどのような知識や概念や技術を身につけなければならないのか?
といったことをあなた自身が正確に把握していなければ、いかなオススメ本も必読書も名著もゴミ情報と変わらないのである。
必然、本のオススメ記事をブログで書こうと思えば、
読み手の目的意識がはっきりしている「how-to本」の紹介記事か、
さもなくば今回のように「自分がどんな本を探しているかを理解するための本」を紹介することになる。
今般紹介した『建築・都市計画のための空間学事典 (日本建築学会編)』が、あなたの最初の必読書を見つけるための、最初の一歩となったことを願う。
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