一般に設計職の入社面接において、建築学生はポートフォリオの提出が求められる。
しかしそれは、漫然と時間や労力をつぎ込んだ作品をお上品に並べ立てた冊子では全く意味がない。
なぜなら学生レベルの「いい作品」など、実務経験者から見ればどんぐりの背比べでしかないからだ。
面接官は作品自体の巧拙を、学生が思っているほどには重視していないものである。
面接官が見たいのはむしろ作品そのものではなく、その作品が出来上がるに至る過程や試行錯誤、挫折体験だったりする。
というのも、ポートフォリオで本当に求められているのは設計力でも表現力でも造形力でもなく、
「ある課題に対して適切な選択肢を整理し、それぞれのメリットデメリット・コストとリターンを分析し、決断する力を持っているか」
というポイント、すなわち「意思決定のスキル」の有無だからだ。
(単純労働職では無く、高次高給な専門職につくのであればなおさらのこと)
面接官はポートフォリオから何を見ているのか
そして、その意思決定力を測定するには、ある課題に対して「なぜその選択を取ったのか」という点を話させて試すのが手っ取り早い。
例えば建築作品に対しては、
- なぜ平屋ではなく2階建てにしたのか
- なぜRC造ではなく木造にしたのか
- なぜ敷地南面に玄関を設けたのか
などの質問を投げかけつつ、同時にあなた自身のパーソナルな面においても
- なぜこの業種を志望しているのか
- 設計におけるあなたの目標や方針はあるのか
- それらのために、あなたは学生時代なにに取り組んだのか
といった部分を根掘り葉掘り聞くのである。
こうした疑問や問いかけを投げ掛ければ、課題ごとに目的意識を持って取り組んできた学生と、教員に言われるままに作品を提出してきた学生の差異は、たちまち歴然となる。
まず普通の学生は、そこまで日々の意思決定に具体的な根拠や理路を持ち合わせていない。
あるいは、かりにそこに根拠があったとしても、就活の時点にはそれらを覚えていない。
だから、3年生の終わりになって慌ててポートフォリオを取り繕って、その辺の本屋に売っている面接対策の本を読んだくらいでは、面接官が切り込んでくる「意思決定力」を試す質問に全く太刀打ちできない。
ゼネコンの設計職を志望していながら、古民家群の再生を卒業設計のテーマにするといった「目的と手段の矛盾」が、質問をしないうちからボロボロこぼれてくる。
逆に、こうした質問に答えられるような人材というのは、「自分はなぜこの選択を行なったのか」という決断に絶えず自覚的であり、かつそうした自問自答の過程をなんらかの形で記録している。
そして、残した記録を定期的に振り返り自己分析を行うことで、今の自分が建築家として何を目指していたのか、そのためには何がかけているのか、といった将来戦略を幾度となく描いては、自分の「意思決定」の質を向上させているのである。
課題が終わった段階で「この課題では提出に間に合わなかった。次からはもっと頑張ろう」なんていう感想でお茶を濁すのは論外で、
- この課題の冒頭で自分は何を目標としていたのか
- その設計にあたってインスピレーションを受けたのはどんな作家の作品だったのか
- スタディ模型やスケッチを通じて発見した課題はどのようなものであったのか
- もう一度この作品を0ベースで作り直すとしたら、どのような形で作るのか?
といった疑問を一つ一つ思い返し、忘却してしまう前に記録し整理し方針を立て、次の課題に活かす姿勢を保っている。
そうやって、教授の設定した「提出締め切り」にとらわれること無く、執念深く自分の作品と向き合い、未完の作品を許さず徹底的に自分の設計姿勢に向き合い続けてきた人間にとって、「自己分析で強みを探る」「面接官の質問に答える」といった行為は、格別準備の必要な行為ではない。
「意思決定」のちからを鍛える方法
で、この「自問自答の過程の記録」や「意思決定スキルの向上」というのは、結局のところ「ポートフォリオの作成」とほとんど同義だ。
- 自分が何を目標としているのか
- 何からインスピレーションを得たのか
- 何を課題点として捉えたのか
- それにどのような解決策を導いたのか
- ほかにもっと最善の選択肢は無かったのか
といった一連の思考のプロセスを将来の就活や成長のために振り返ったり記録したりするというのは、今後の自分にそれらを伝える「未来の自分へのポートフォリオ」を作っていると読み替えられるだろう。
つまり
「ポートフォリオ作成には意思決定の力が重要」
「意思決定力を鍛えるには、ポートフォリオ作成が必要」
という循環的な構造がここにあるのだ。
この卵が先か鶏が先かの構造は、当然好循環も悪循環も生み出す。
まず、この構造にいち早く気付いている学生ほど、定期的に自分の作品をふりかえり、自分がどの方向に向かっているのかを自覚し、その為に何をすべきなのかを常に問いかけなおす。
そして、このポートフォリオの作成と、問題解決能力の向上の往復ビンタの繰り返しによって、継続的に自分の決断力や判断力を鍛え上げているのである。
逆に、設計課題の締め切りを「設計からの解放」という認識でいる学生というのは、それぞれの設計課題での伸び代も乏しい上に、課題ごとでの発見や成長を連携させる回路を持っていない為、思考が常に行き当たりばったりだ。
明暗を分けるのは、「ポートフォリオとは就活のために作るものだ」という固定観念に囚われているか否かという、大きな発想の隔たりだ。
前者の人間にとって、ポートフォリオとは単にプレゼンボードの内容を並び替えて冊子上に束ねたものでしかない。
しかしプレゼンボードには、その設計の過程や良いポイントの紹介はあったとしても、あなた自身の「意思決定力」を証明するコンテンツがどこにもない。
面接官がいう「作品をただ並べただけ」のポートフォリオというやつである。
一方後者の人間(というか普通のクリエイター)にとってポートフォリオ作りとは、「自分の創作人生を振り返るとともに自分の将来設計を行う」という、極めて戦略的な意思決定の営為なのである。
まとめ
ポートフォリオとは、本来は「紙入れ、札入れ」を意味するイタリア語のportafoglioに由来を持つ単語だ。
現代ではそこからさらに意味が派生し、
- 金融業界では「現金、預金、株式、債券、不動産などの保有資産の一覧」を、
- 教育業界では「評価・経験・体験・実績などの成績評価の一覧」を、
- クリエイター業界では「作品・実績・受賞・技術などの保有スキルの一覧」を、
それぞれ指し示す単語として用いられる。
すなわちポートフォリオという言葉の本質は「財産目録」にある。
そこには、小さな手持ちの財産を「運用する」というニュアンスが含まれているのである。
適切なポートフォリオを作ることで財産が増え、財産が増えることによってポートフォリオが充実する、そうやって雪だるま式に小さな資産を大きな資産に「運用」していく発想が、その根底には存在している。
ここに、ポートフォリオとプレゼンボードの重大な違いがある。
プレゼンボードとは、「作品の良さ」をアピールするものであるのに対し、
ポートフォリオとは、「あなたの良さ」をアピールするための武器なのである。
ポートフォリオの最終的な目標は「自分の価値をどのように増やしていくか?」という戦略を練る点にあるのである。
個人的にも、面接では作成中のエピソード(それも失敗談)の方が、作品の良し悪しや背伸びした建築論よりはるかに受ける印象。
・教授と喧嘩した話。
・講評会で馬鹿にされた作品。
・仲間と揉めて完成しなかったコンペ。
・能力が足りなくて実現しなかったプロジェクト。 https://t.co/f2ioMkLuBs— 建築学科ごっこ (@gakkagokko) May 17, 2020
そこまで大袈裟で無くてもいいけど、
「この課題では、敷地の〇〇というエピソードを活かそうと考えた。結果、円形の平面を持つ建築を提出した。しかし、動線計画が不明瞭という課題が残った。その後自主設計では、“Q”の字状にブラッシュアップした」
みたいなのでも、全然面白い。— 建築学科ごっこ (@gakkagokko) May 17, 2020
仕事というのは揉めるしミスるし失敗するんですよね。
だから失敗に対してどういう捉え方をする学生なのかという点はアピールポイントになる。失敗には普遍性があるので、学生でも社会人でもつまづき方にそれほどバリエーションはないですし。
— 建築学科ごっこ (@gakkagokko) May 17, 2020
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