建築学科ごっことは?

建築が好きな学生のための「好きなことで生きていく」方法論

皆さんは建築が好きですか?

それを仕事にしたいと思うほど好きですか?

堂々と人に向かって「私は建築が好きです」と言えますか?

間違えて、「自分は建築が好きなんだと思い込んでいる人たち」になっていませんか?

ほんとは建築設計に対して適性が全くないんだけれども、何かの間違いで「自分は設計業務に向いている」と自己洗脳してしまった人になっていませんか。

「建築学科にいるんだから、自分は建築が好きにならなければならない!」と考えたりしてませんか。

普通の人なら「自分の適性に応じて環境を変えよう」とするところを、

「環境に応じて自分の適性を矯正しよう」という無理のある思考になっていませんか。

そんな歪な形で「好きを仕事にする」ことを達成しようとしていませんか?

「そんなあほなやつ、いるわけないだろうwww」だって?

でも建築学科やゼネコンに行けば、こんな人間を相手の商売が成立するなと思うほど、「好きを仕事に」教の信者が跳梁跋扈している。

「好きでなければこの仕事は務まらない」

という言葉の意味を履き違えた、哀れで不幸な集団が、掃いて捨てるほどたくさん現れる。

なんでこんな不幸なことが起こるのかといえば、僕たちが「建築をやっている自分しか知らない」からだ。

僕たちは「やりたいこと」を暫定的に決めてきただけ

例えば小学生になりたい職業を聞いて、税理士やサーバサイドエンジニアや卸売業者や電気管理技術者といった職名は絶対に出てこない。

それは、彼らがそんな職業を見たことも聞いたこともないからだ。

だから自分の乏しい知識の範囲内で、一番理想的な職業を彼らは答えている。

これは高校生の受験だって同じだ。

自由度も多様性も極端に低い日本の高校生が、ほんとうに自分の適性を把握して、それに即した進路選択を行うなんて、できるわけがない。

だからみんな、なんとなく決めた進路を「自分のやりたいこと」と自己洗脳して、受験のモチベーションとして乗り切ってきた。

これは誓ってあなたを馬鹿にするわけでも侮辱するわけでもないのだけれど、あなたの中に根ざす

「建築が大好きだ」

「自分は建築に向いている」

「将来は建築設計がやりたい」

という感情の99%は、自己洗脳と大人たちの教育の賜物だ。

だって、カツ丼を食べたことがない人間が、

「俺はカツ丼が好きだ」

って言ってたら、どうしたっておかしいんだもの。

 建築を建てたことがない人間が

「俺は建築設計が好きだ!」

って叫ぶことの方が、異常なのだ。

要は僕たちは人生の選択において、それまでの経験を踏まえて一番相性が良さそうな予感のする分野を、暫定的な「好きなこと」「やりたいこと」に認定し、そこに飛び込んできただけに過ぎないのだ。

当たり前だが、建築学科の入学試験に「英語」や「数学」や「物理」はあっても、「建築設計」という科目は存在しない。

だからみんな、「自分が建築に向いているか」を入学前に測る方法なんてどこにもないまま建築学科に入学しているのだ。

でもそれは、あなた落ち度ではない。

親と教員と店員以外の大人と会話したことのない日本の高校生に、それ以上の意思決定を迫るのは酷というものだ。

まして、あなたが「自分が何をしたいのか」をはっきり決められないまま志望校を決めたとしても、それを責める権利が僕や大人たちにあるはずがない。

でも、そろそろ確かめるべき時が来ている。

僕たちには「自分は本当に建築に向いているのか」を検証し、必要に応じて修正する手続きと機会が必要なのだ。

建築学科に進学したあなたが、やっぱり今から税理士やサーバサイドエンジニアや卸売業者や電気管理技術者を目指すというのは、親や教員や周囲がなんと言おうが、ものすごく勇気のある誇り高い行動だ。

建築学科に入学しながら、建築より楽しくて成果の出る活動領域を発見する努力は、極めて正当な努力だ。

「建築が好き」な自分への依存

でもこういう進路の修正を、ほとんどの人ができない。

人間は、過去に自分が行なった選択を否定するような選択を取ることが、本当に難しいのだ。

だからこの文章を読んでいる人の過半数も、やはり僕の主張には抵抗と違和感を覚えるはずだ。

特に、幼い頃から建築家になることに憧れてきた人とか、4年間設計課題を熱心に取り組んできた真面目で実直な人ほど、この決断は困難になる。

第一に、そういう人ほど、他の選択肢を持っていないからだ。

第二に、これまで自分の夢に費やしてきたコストが大きすぎるからだ。

本当はもう建築設計が辛くて、

あんま設計者としての目が出る予感もないけれど、

かといって他にこれといった夢も取り柄もなく、

とにかくこのまま前進してこれまでの遅れを取り戻す以外に人生を好転させる方法を思いつかない人ほど、

なんとなく入学した建築学科で、

与えられた大量の設計課題に振り回されて、

「建築が大好きだ」という集団に囲まれて、

恋に恋する乙女のように「建築が好きな自分」を理想化して、

「建築を好きになる努力」なんて、メンヘラの自己陶酔みたいな勉強会や旅行をして、

暫定的に決めたはずの「やりたいこと」「好きなこと」を修正する機会を持たないまま、

知名度とネームバリューとブランドとプライドと思い込みだけで就職先を決めて、

そして職業や環境に合わせて自分自身を歪めて、

「俺は好きなことで生きている!幸せだ!」とその人生を肯定するしか、

アイデンティティを保てない状況に追い込まれてしまうのに、

それをどうしても食い止められなかったりする。

もちろん、建築学科に入り、建築家として働き、実際に建築が骨の髄から好きな人間というのはたくさん存在する。

でも、あなたもそのうちの1人であると、自信を持って言える根拠が何かあるだろうか?

例えば本当に「好きなことで生きている建築家」というのは、そもそも依頼が来てようが来ていまいが、それとは無関係に設計が大好きで、いつも暇さえあれば頭の中で建築を起こし図面を引き、そしてその趣味の延長で顧客の声に応えているような連中だ。

建築学科で言えば、設計課題の息抜きに自作の建築を設計しているような狂人のことだ。

こうした人は、「自分が作りたいから作っている」という点において、本質的には「ガンプラが大好きなだけのおじさん」と変わりはない。

たまたまガンプラよりも建築の方が社会的ニーズがあるので、運良く商売として成り立っているという、結構危うい存在だ。

だけどこんな人が、ものづくりの世界では決して少なくはない。

(しかも超一流と呼ばれる世界ほど多い)

これが本当の、全く歪みも衒いもない、「好きなことで生きていく」という人種の世界観だ。

で、

どうですか皆さん。

そういう人の集団に、飛び込む自信はありますか?

例えばこれは、このブログで何度も書いてることだけれど、自主設計ってしたことありますか?

設計課題やコンペのためではなく、

成長のため、自分の表現欲求のために、

誰に頼まれたわけでも、誰に評価されるためにでもなく、

趣味と思いつきと暇つぶしのために、建築を設計したことってありますか?

もう一度確認しますけど、あなたは本当に建築設計が心の底から好きと、この場で声を大にして言えますか?

本当に「好きなこと」を見つける方法

結局のところ、自分の規定した「好きなこと」にがんじがらめな人というのは

・他の「好きなこと」の選択肢を知らない

・これまで「好きなこと」にかけてきた労力を捨てられない

ことが多い。

だから、本当に自分にとって適した分野をみつけるために第一に必要なのは、

・いろんなジャンルの情報にアンテナを張る

・少しでも面白そうと思ったジャンルに、なるべく低コストで参入する

・うまくいかないと判断したら即撤退する

という無節操さだ。

グラフィックデザインでも、イラストレーションでも、写真撮影でも、3Dモデリングでも、町家再生ワークショップでも、プログラミングでも、ブログ執筆でも、イベント運営でも、飲食店アルバイトでも、自転車日本一周でも、居酒屋はしごでも、ナンパでも、路上演奏でも、格闘技でも、ゴミ拾いでも、

とにかくこれまで自分がやったことのなかった営為を、いろんなジャンルの訓練や勉強を、「その程度なら俺でもできそう」と思う活動を、片っ端から試すのだ。

なぜならここまで話してきた通り、その分野を

「本当に好きなのか」

「本当に向いているのか」

ということは、

「やってみなければわからない」

「続けてみなければわからない」

からだ。

だから、好きなことを発見するための第一条件は、とにかくあらゆることを試すことだ。

結局自分が好きなことを見つけられるかどうかは運でしかないのだから、僕たちにできるのは熱中できるものに運良く巡り会えるまで、ひたすら試していくしかない。

もちろん、運良く「これが私のやりたいことだ!私の生きる理由だ!」という趣味や仕事が見つかっても油断はできない。

なぜなら、これまで話してきたように、それが本当に自分にとって好きなことかどうかは自分では判断できないからだ。

人間というのは、くだらない見栄や未練やプライドや虚栄心によって、いとも簡単に「自分の本当に好きなこと」を見失ってしまう。

人間的に、社会的に、政治的に好ましい「〇〇が好きな自分」に簡単に目がくらみ、それが好きだったことにしてしまう生物なのだ。

だから、好きになる対象はある程度分散させなければならない。

たった1つの理想像に自分を拘束されないために、あとからいくらでも軌道修正できるように、無数の夢や目標を同時並行で稼働させなければならない。

もちろんこの時、

・初期投資のかかりすぎるもの

・損した時の反動が大きすぎるもの

・公序良俗に反するもの

に手を出すのは全くオススメできない。

大量の借金をして飲食店を開業したり、元金を割って大損する可能性のあるFX投資に手を出したり、怪しげな情報商材を友人に販売するのは、もしそれが「本当に好きなこと」出なかった時の損害が、途方もなく大きすぎる。

まぁその分、うまくいけばリターンも多いのだろうけれど。(やるなら自己責任で)

そしてその上で、楽しくないもの、続かないものを、どんどん切り捨てていく

自分のキャパシティを超えるような大量の活動に取り組む中で、

自分にとっての

「楽しくないこと」

「自分に合わないこと」

「コスパの悪いこと」

を、その他の膨大な「楽しいこと」によって24時間から淘汰する

逆に楽しくて仕方のない活動については、どんどん発表し、身近な人に声をかけ、情報も仲間もどんどん集まってくる状況を構築する。

そうすれば、自分にとって適性のあるジャンルや、もっと好きになれるテーマや、自分の好きを活かせるフィールドに巡り会える確率もどんどん上がっていく。

万一、何らかの理由で適性のない活動に一時的にのめり込んでいても、他にもっと楽しいことさえ見つかれば、ストレスなく離脱できる。

もっともっと楽で楽しいことで24時間を埋め尽くし、くだらない見栄やプライドで特定の「すきなこと」に固執してしまう愚を避けるのだ。

これこそが、「本当に自分が好きなこと」に巡り合うための、1つの方法論だ。

インターネット時代における「生きがい」の見つけ方

こういうことを言うと、

「そんなにいろんなことを同時にできるわけがない!」

「専門分野に特化して学んだ方がいいに決まっているだろう!」

と思う人がいるかもしれない。

誤解のないように断っておくけど、これは断じてありとあらゆる分野で専門家になるべきという主張ではないし、イチローや寿司職人のような「コツコツ一点突破」型の働き方を否定するものではない。

いうまでもなく近代社会とは、専門家同士の分業によってここまで発達してきた。

異業種の知識が組み合わさることで生まれるイノベーションとか、専門化が進み過ぎて発生する問題(サイロエフェクト)とか、分業し過ぎないことのメリットや細分化のデメリットも強調されつつあるけれど、少なくとも一個人が幸せになるための方法論として「職業や技能はは専門分野に特化した方が強い」という原則は真理だと思っている。

(凡人がゼネラリストを気取ったところで、器用貧乏になるのがオチだ)

でも問題は、「じゃあどの分野に特化して学べばいいの?」という点だ。

思えばこれまでの日本人は、

  • 自分は商売の道に進むのがいいのか、
  • 製造業に進むのがいいのか、
  • 官職に進むのか、
  • それともアスリートとして大成することに賭けるのか

そういう人生の選択における有効な決定指針を、これまで碌に持っていなかった。

1億の国民それぞれの適性を見抜き、適切な職業や役職に配分する技術なんて、この世のどこにもなかった。

仕方がないので、昭和から平成にかけての日本は、軍隊式の教育方式と新卒一括採用によって個性を均質化し、スケールメリットで成長する戦略を採用してきた。

「自分は何を習得し、何に精通するか」

という人生の選択を、各人の判断ではなく企業が決める戦略だ。

そしてこの作戦は大成功を収めた。

画一化の弊害も大きかったが、それ以上に社会が豊かになるスピードが大きかったので、当の日本人も幸福に一生を過ごすことができた。

 でも、幸か不幸か、僕たちはこうした働き方では、幸福になれそうもないらしい。

それがIT革命による価値観の崩壊なのか、人口減少に伴う生物的な変化なのか、経済成長の停滞による人事制度の破綻なのかはわからないけれども、とにかく「自分は何に適正があり、どんな職能につくべきか」ということを、これまで以上に自分で判断し、しかも成果を出さなければならない時代がやってきた。

幸い、新しい武器が僕たちには配られている。

インターネットインフラの発達だ。

新しく何かを学んだり、

有能なだれかの教えを乞うたり、

同じ志の仲間と遠方からつながりあえたり、

新しく何かに挑戦したり、何かに興味を持つことの障害が、かなりの部分排除されてきた。

そしてこれは、自分の向き不向きを分析する手段が格段に増えたことを意味している。

「自分は何が大好きで何に対してなら無限に努力ができ、しかもそれを苦痛とすら感じないのか」をみつけることが、前世紀とは異次元といっていいほど簡単になった。

インターネットがあれば、僕たちの「生きがい」さえ、検索できるようになったのだ。

これが近年、「好きなことで生きていく」という人生観が台頭してきたことの背景にある。

僕が「色んな分野に手を出そう」と言っているのは、「自分は何に対してリソースを集中して鍛えるべきか」を発見するまでの話だ。

何か1つの分野に専門化することと、自分が何が好きなのかも把握していないうちに、「これが俺の生きる道だ!」と自分の時間やお金をつぎ込むことは別の問題だ。

ここで言っているのは、勝算がありそうな投資先に小さく分けて賭けながら、ここぞと言う勝ちの目が出た時に大きくかけろという、戦略至極ありふれた戦略について話しているに過ぎない。

さぁ、最初の質問に戻ろう。

皆さんは建築が好きですか?

それを仕事にしたいと思うほど好きですか?

堂々と人に向かって「私は建築が好きです」と言えますか?

間違えて、「自分は建築が好きなんだと思い込んでいる人たち」になっていませんか?

もう一度、自分のやるべきことを見つめ直してみませんか?

大学に入る前に決めた、「建築学科」という組織に、いまだ囚われすぎてはいませんか?

もっと他の分野にも目を向けて、自分が「本当に好きなこと」を探さなくて良いんですか?

もし、将来

本当に心の底から「好きなこと」で生きて行けるとしたら、

それはとても、

とても、

とても素晴らしいことだと思いませんか?

「好きを仕事に」するとなにが起こるのか?

もちろんそんな訳はない。

「自分の本当に好きなことを仕事にすれば、人生は楽しくて幸福で豊かである」

なんて甘い考えは、

「働く」という行為のほんの一面しか見ていない、極めて幼稚で浅はかで独りよがりな発想だ。

なぜなら、「好きなこと」と「儲かること」は、別の問題だからだ。

いや、むしろ「好きなこと」ほど「儲からないこと」である可能性の方がずっと高い。

だから、何も考えないで「好きなこと」を仕事にしてしまうと、とんでもない不幸に見舞われる。

それは、コモディティ化と呼ばれる現象に理由がある。

例えば飲食業を見れば明らかなように、ケーキ屋・カフェ・蕎麦屋・パン屋のように、好きで参入する 人間の多い分野は、一件あたりの儲けが限界まで小さくなる。

参入者が多いということは、需要に対して供給が過剰になるということだ。

具体的に考えてみよう。

千人しか住民のいないとあるエリアで、1日1万個のパンを売ることは不可能だ。

すなわち、そのエリアに出店できるパン屋の数には上限がある。

それでも新しくパン屋を開きたいというパン好きの主婦が現れれば、誰かが店を畳むか、全てのパン屋の売り上げを少しずつ下げるか、エリア外から顧客を呼ぶほど美味しいパンを焼くしかない。

とはいえ、パンを美味しく焼く技術など完全に円熟しているので(なにせメソポタミア文明から1万年近く試行錯誤されている)他の業者と差別化することは極めて困難だ。

結果、他のパン屋に負けないためには価格を下げざるを得なくなる

それでも、そこにいるのはパンを焼くことが大好きでパン屋を開いた人ばかりだ。

だから、多少利益が減ろうが赤字が続こうが、彼らは限界まで店を開き美味しいパンを作ろうとし続けるだろう。

このように、「好きを仕事に」する業界は必ず貧困化する

  • 参入者が多く、供給が過剰になる
  • 技術が円熟しており、差別化が不可能
  • 経済的利益を目的としないため、みんな限界まで撤退しない

のだから、当然の結末だ。

現に、漫画家も声優もアニメーターも、YouTuberもブロガーもゲーム実況者も、判を押したようにまったく同じ原理で苦境にあえいでいる。

まともな大人たちが

「夢みたいなことを言っていないで、堅実に仕事をしろ」

「仕事というのは、つらくて苦しいことに耐えることだ」

と語るのは、至極真っ当なアドバイスなのだ。

だから、「好きだからそれを仕事にする」という行為は、やっぱり危険な判断なのだ。

では、具体的に「好き」以外の何を基準にすれば、コモディティ化を避け、幸せに働くことができるようになるのだろうか?

「好きなこと」と「嫌ではないこと」

ところであなたは、これまでの人生で自分としてはそんなに思い入れも執着もない作品や技能や作業について、他人から褒められた経験はないだろうか?

「手当たり次第にいろんな新しい物事に挑戦しまくる」

「結果、好きでないジャンルを淘汰していく」

ことを繰り返していると、このようなほとんど労力を払っていないにも関わらず、他者より優れた成果を出せてしまう分野が見つかることがある。

以下これを、「好きなこと」に対して「嫌ではないこと」と呼称しよう。

すなわち、前述の「好きなこと」が「成果が出るまでどれだけコストをかけても苦痛でない分野」だとすれば、「嫌ではないこと」とは「他人より低いコストで成果を出せる分野」と定義できる。

もちろんここでいうコストとは、単に経済的なものだけではない。

  • 他の人が習得に戸惑っている間に簡単に身につけてしまえる学習コスト
  • 1つの成果物を作るまでにかかる時間が小さく効率的に進められる時間コスト
  • 同じ作業でも精神的に参りにくく、苦痛なく継続できる精神コスト

その他ありとあらゆる点で継続を阻害するストレス要因のことだ。

例えば「数学のテスト」は、人によって学習コストに大きな差が見られる顕著な例だろう。

こうした

「他人には難しいけど自分にとってはそれほど苦痛ではない」

分野こそ、あなたの人生を切り開く鍵となる。

なぜなら、「嫌ではないこと」はコモディティ化しにくいからだ。

「嫌ではないこと」で生きていく

飲食店の例でも示したように、「好きなこと」は他者と被りやすい。

故に、それを基準に事業を起こしてしまうと必ず他の競合勢力との戦いになる。

おまけに他人からは、

「でも好きなことを仕事にできてるんだから、多少辛くてもいいじゃん」

と同情してもらえない可能性が高い。

しかし「嫌ではないこと」は偏りにくく、少ない需要に対して供給が過剰になりにくい。

仮に競合が出てきても、相手は必死に継続努力をし続けないと商売を続けられないのに対し、あなたはわずかなストレスでその仕事を続けられる。

(なにせその仕事が「嫌ではない」なのだから)

そして「嫌ではないこと」を仕事にすると、「好きなこと」を仕事にするより圧倒的に他人から感謝してもらいやすくなる。

なにせ普通の人ならば嫌がってやってくれないような仕事でも、あなたなら嫌な顔1つせず粛々と遂行し、高いパフォーマンスを発揮してくれるのだ。

医者が仕事を続けられるのは、臓物や血液が大好きだからではなく、臓物や血液を見ることに苦痛が少ないからだ。(なおかつ苛烈な受験競争に耐性があったからだ)

統計学者が複雑な数式や高度な理論を駆使して情報を解析できるのは、数字や計算式が好きだからではなく、数学の学習に適性があったからだ。

一日中部屋にこもりきりの天才プログラマーがいたとして、彼が複雑なコーディングと長い孤独に耐えられるのは、彼の精神力が強靭だからではない。単に彼がそういう人間だったからだ。

(このプログラマイメージは、随分全時代的なイメージだけど)

そして、彼らがその仕事に愛着を持っていない事と、彼らの社会に対する高い貢献度は、全く無関係ない。

結局、この議論は至極当たり前の議論に落ち着くことになる。

「仕事はあなたの好き嫌いよりも、社会の需要供給と、才能で選べ」

だから今あなたがすべきことは、一刻も早く「嫌ではないこと」を見つけることなのだ。

なんども繰り返すが、ネットのある現代は数年前に比べてもはるかに「嫌ではないこと」を見つけやすい時代だ。

まして、偽りの「好きなこと」に惑わされさえしなければ、他人よりちょっと得意な程度のことなんて、いくらでも見つけることができる。

小括

ここまでの情報を整理してみよう。

  1. 僕たちは「好きなこと」を正確に把握することは難しい
  2. だからとにかく、いろんなことに挑戦し、「好きなこと」「嫌ではないこと」を検証しよう
  3. 「好きなこと」を仕事にすると、コモディティ化しやすく儲からない
  4. 「嫌ではないこと」を仕事にすると、楽しくはないが貧困にもならない
  5. だから、「好きなこと」を捨て、「嫌ではないこと」を仕事にしよう

もちろん、「好きなこと」を仕事にしながら幸せそうな人もいる。

いつも楽しそうに仕事をこなし、幼児が積み木で城を作るように熱心にプロジェクトを進め、それでいて全く搾取されている様子も、誰かと競い合って消耗している様子もない。

そんな人間は確かにいる。

でもそんな彼らも、よくよく見れば「嫌ではないこと」を仕事にしている。

というか、彼らは大体において「好きなこと」と「嫌ではないこと(=儲かること)」が、運良く一致しているだけのケースが多い。

彼らはインタビューで、自分の成功を「好きなこと」を仕事にしたからだと笑顔で語る。

沢山の努力と、その努力が苦痛にならないほどの情熱を持っているから、私の仕事がうまくいったと、彼らは賢しらに語るだろう。

当然だ、間違っても「私には才能があったから成功した」なんて喋るわけがない。

「対して思い入れも愛着もないけれど、この仕事が一番個人的に効率が良かっただけです」なんて喋ったら、人の心のない冷たい人間だと思われてしまう。

もしあなたの憧れの人が「好きなことで生きていこう」と語っていたら、その言葉に共感するより先に、まずはその人のことをよーく観察してみて欲しい。

もしかしたらその人は、自分の好きなことと得意なことがちょうど合致しただけの、極めて極めて運のいい人間なだけかもしれないのだから。

さて、ここまで「好きなこと」と「嫌ではないこと」の関係を整理してきた。

いよいよ本題に入ろう。

長い前置きだったが、いよいよ記事タイトルの回収に入る。

「建築・デザイン」が好きな学生が、

それでも「好きなことで生きていく」ためには、

いったい何ができるのだろうか?

「好きを仕事に」の本当の結論

簡単だ。

「好きなこと」と「嫌ではないこと」、その双方のいいところをハイブリッドすればいい。

  • 「嫌ではないこと」で金と信頼を稼ぎ、「好きなこと」に投資する
  • 「好きなこと」で個性を磨き、「嫌ではないこと」の稼ぎをブーストする

まず、「嫌ではないこと」によって、安定した収入を得ることを目指す。

繰り返しになるが、ここで「好きなこと」を仕事にしてしまうと、

  • あなたより「もっとそれが好きな人」との消耗戦
  • 自分のこだわりや美学に反する業務
  • 「好きなことを仕事にできていいね」という嘲笑と嫉妬

のような苦しい苦しい戦いが、漏れなくおまけで付いてくる。

その仕事に対して愛着もこだわりもなければ幸せに粛々とこなせた業務が、「好き」という呪いが在るせいで極上の拷問に変わってしまう。

そんな目に合うくらいなら、「嫌ではないこと」でお金をもらえる体制を早めに構築する方がずっとずっと 賢明だ

最小限のコストと出力で仕事をして可処分時間と資金をふやし、時間的にも経済的にも精神的にも余裕のある、皆から感謝される人になった方が、はるかにQOLの高い人生を歩むことができる。

そしてその余力を兵站として、「好きなこと」を始めるのだ。

既にあなたには、「嫌ではないこと」を通じて獲得した、別業種のスキルと人脈と知識、おまけに別系統の収入源を持っている。

「好きなこと」に生活を依存していないため、飽きたりスランプになったりしても無問題だし、逆にリスク承知で冒険的な取り組みをおこなう余裕もある。

おまけに、もしこの時点である程度名の通った企業に勤めているのなら、クレジットカードの枠を広げることも、銀行から融資を受けることも、「好き」を仕事にしている連中よりずっとずっと簡単だ。

だから、いきなり「好きを仕事に」した人々に比べて、はるかに「好きなこと」を実行しやすい

その上で、2つの業務を徐々に融合させていく。

「好きなこと」の業務が軌道に乗ってきたのであれば、そのまま「嫌ではない」仕事から撤退・退職し、本当の意味で「好きを仕事に」すればいいし、

あるいは「好きなこと」で培ってきた知識や経験を活用して、「嫌ではないこと」の事業を改善・差別化することだって可能だろう。

この場合、どちらが本業でどちらが副業かという問いや、業務形態の差はあまり関係ない。

例えば学生のうちからまとまった収入を得るだけのスキルと実績を身につけておけば、いきなり新卒で「好きなこと」をできる企業に入社してもいいだろうし、

逆に「嫌ではないこと」を基準に就職し、勤務後の余った時間で副業として「好きなこと」をやるという選択肢もある。

 結局の所、苦境に陥っている人というのは、それが好きとか嫌いとか得意とか苦手とか、業界がブラックとか縮小傾向とか、会社員だとかフリーランスだとか、そういう次元の理由で苦しんでいるのではない。

一口に言えば、目標にせよ収入源にせよ、それを単一のなにかに依存している点に最大の原因が在るのだ。

逆説的だが、自分の人生をたった1つか2つの「好きなこと」のみで支えている人間は、絶対に「好きなこと」だけで生きていくことは不可能だ。

「やりたいことだけやって生きていく」とは、

これと決めた好きなことに集中し、そこに自分の人生も生きがいも一点投入してしまうことをいみするのでは無い。

すこしでもやってみたいと思うことに顔を突っ込み、

その中で自分にとって楽しくない事、成果の出ない事を淘汰していき、

スキルや夢や収入が相互に最適化した人生を構築する、

そんなバランスの良い生き方の事を指ししめす概念なのだ。

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